凉宮ハルヒのアフロフューチャリズム

まず初めに、アフロフューチャリズムとは過去を書き換え、未来を幻視するとこで現状肯定しようとする20世紀後半に生まれた思想である。
つまり、アフリカ人は奴隷としてアフリカ大陸から北アメリカ大陸へと連れてこられた。その奴隷として日々で彼らは故郷の言葉を喪失し、文化を喪失した。もはや現代に生きるアフリカン・アメリカンにとってはアフリカ的なものは自らのアイデンティティに繋がるものでなく、かといってアメリカ的なものは北アメリカ大陸に生きるアフリカン・アメリカンにとってすんなりと自らのソウルとして受け入れられるものではない。

そうした中でてきた思想がアフロフューチャリズムで、アフロフューチャリズムは自らのソウルを宇宙に求め、現状を大きく超えたコスモポリタニックなものを希求する。「おれたちはアフリカ大陸からファッキンアメリカ大陸に頭をぶっ叩かれて奴隷として連れてこられたんだ。でも大丈夫さ。おれたちのソウルは宇宙にあるからな」と、そういうわけである。


凉宮ハルヒシリーズのテーマを一言で言うなら「想像、空想することによって現状を楽しいものにしてしまおう」とそう言えるかもしれない。
この世界はこの自分たちが生きてる現実はさして面白いものじゃない。それがここ20年くらい、比較的若い世代の思ってることではないだろうか。
そう、この世界はさして面白くないのだ。何も特別なことは起きず、凡庸なことに熱中している人もいるが、それに熱くなることが出来ない人間にとってはただ淡々と「何か」を求めながらぼんやりと生きているのである。
宇宙人も未来人も超能力者もいない。そんなつまらない世界である。
そんな世界で宇宙人も未来人も超能力者もいると仮定して(実際いるのだが)生きていこうとするのがハルヒ(正確に言うならキョン)たちである。
凉宮ハルヒシリーズの作品構造は非常にメタ要素の強い作風になってるので詳しくは論じられないが、凉宮ハルヒの驚愕において強く意識されてるのはある種の想像を通しての現実改変である。
それは自分が騎士であると仮定して大きな冒険の世界で生きたドン・キホーテの愚かしくも輝いてる聖性さと似ているかもしれない。

もはや騎士道など廃れた時代に自らの騎士道を貫こうとして生きたドン・キホーテ
自分を土星からやってきた土星人であると主張して、地球人を音楽で救おうとしたサン・ラ(野暮なことは言いたくないが、当然彼はアフリカン・アメリカンである)
そして、この世界が宇宙人や未来人や超能力者がいる世界なら楽しいと夢想したハルヒキョン


おそらく愚かしものかもしれない。世界をそう妄想してしまうことは。現実逃避なのかもしれない。
しかし、それこそが人間が持つヒューモアなのであると思う。

私的な話だが「劇場版00ガンダム」において主人公のMSであるクアンタが戦闘するものではなく、人間とは違う知的生命体と対話するためのガンダムであると作品内で説明された時私はちょっと涙ぐんでしまった。
ガンダムフューチャリズムとでも言うのかもしれない。
そのときガンダムは戦う存在ではなくコミュニケーションのための存在へと改変、偽装されたのである。

私たちは想像力を使い現状を書き換え未来を幻視する。

私は、あなたたちはガンダムパイロットであり、エヴァンゲリオンパイロットであり、プリキュアなのである。
そう信じるきってしまうことの愚かしさ、聖性さ。
ジャパニーズサブカルチャーフューチャリズム。
現実はつまらない?ならそんなものは書き換えてしまえ。
おれたちのソウルはサブカルチャーにあり、どこまでも、どこまでも遠い未来を幻視する。