日記

最近人と会って、まぁ人生の話をすることが多いのだけど(なんだか頭がおかしい人な感じもするが、みんなよく話すよね?)
結構意外なのはみんな人を愛する行為に懐疑的なのねってことで(自分の友だちが揃いも揃ってそういう人間ばっかであるという部分もあると思うが)
自分は結構安直に、毎日話して(毎日じゃなくても良いのだけど)一緒にご飯食べたり、喧嘩したり、笑い合ったり、嫉妬したり、泣いたり、手を繋いでお出かけしたり、生活を共にすること、記憶や思い出、なんらかの行為を共にする、時間を共有すること自体が愛ではないかと思うし
相手の感情を受け止められるなら、それぐらいで自分は(人間は)十分幸せになれるし
それを愛と呼ぶなら、自分は人を愛せるし、愛してるし、相手がなんだかうまく生きられないんだってタイプなら(自分だって悩んでばっかだけど)
それがどれだけ傲慢なことか分かりつつ、他人から傲慢ですねって指摘されても、『俺が守ってやる』『俺が愛してやる』『俺がおまえを温かい世界へ、やさしい生活へ導いてやる」って結構屈託なく思っている。

端的に言って気持ち悪いですね。はい。わかってるのだけど、どうなのだろうな。まぁいいさ。人間いろいろいるからな。みんな違ってみんないい、だ。



毎日、毎日生きていて、インターネットで他人の自意識の発露を読んでいて、自分の自意識をもっと語りたいなって欲望もあるのだけど、
だけど、いつも躊躇するのは結局新しい物語は語りえないし、それならわざわざ書く意味などあるのか、と、いうことだ。

もちろん自己表現をするぶんには誰かが困るわけではないし、いいのだけど、しかしすでにある文字列を長時間かけて作成する徒労感と言ったらなかろうさ。



この世界にはすでに70億以上の神の死体が転がっていて厚顔無恥なやつはそれをどこかで拾っておきながら、自分が作った神だと主張していたりする。

もしその拾った神がよしんば「レアキャラ」だったとしても、それが何だというのだろう。

どれほどレアであろうと、それは既に存在しているものだ。
しかし、本当に恐ろしいのは、それが本当に新しく作られた神である場合もあることだ。
それが本当に新しい神なのかどうか、判断するのは誰だろうか、誰というかどういった論理であろうか。

ふーむ、しかし、もはや、新しい神など居ないと思うが、しかし、それが新しい神でも
わたしは(他の人はどうだか知らないが)それを新しい神だと信じられる強さはないと思う。

この世に存在している(存在がどのレベルで存在しているのかすら疑問に思う)全てのものがジャンクであると思ってる。
自分が常に思ってることはそのジャンクをいかに愛しうるか、と、いうことだ。

既に存在し、言語化されてるであろう人間の自意識よ、構造化の中で認識されうる愛よ、パターンとしてしか認知されない愛よ。

そのくだらなさを
世界や、人間と人間の間にあるとしかいえない風景だったり、感情だったりするもの
それらを、それらこそを愛しいと思う心と、この世界はそもそもシミュレーションであって、端的に全てが二進法に還元出来るデータであって、人間は本当の意味で死ぬことすら出来ない、全てがプログラミングされたものであって、破壊や死も、現象としてこの世界には存在しない、存在してないもの、自分の精神ですら、存在してない、そんなものに愛しいなどと思えるか、いや、愛しいと感じる心すら信じられるのかって気持ちと両方ある。
信じられるものはなんであろうか。あろうか。