日記
11月10日
今日はお昼から食事会。
代々木上原にあるイルプレージョというイタリアンへ行った。
アミューズがパルマハムとりんごを白ワインで煮たもの。
シェフが信頼している方が畜産しているハムのようであった。説明の時に畜産家の方の名前を伺ったが失念してしまった。
前菜が鯖を昆布締めしたものと卵をそぼろ風にしたものと一緒に合わせてあるマリネ。
所謂イタリアンという枠組みからはだいぶ逸脱してると思うが、これがとても美味しかった。
イタリアで修行したシェフが昆布締めの技術をどれほど正確に習得したのかは分からないがとても丁寧な味付でとても美味しかった。
ただ共に供される黒オリーブのアンチョビはともかくとしてラディッキオのヴィネガーソテーはちょっとヴィネガーが強すぎて鯖の昆布締めの繊細さを消してしまってるように思えた。
白菜と牡蠣を海苔と合わせたクリームソースのスパゲッティ。
これも和の食材を使用したものだ。食材一つ一つは美味しかったのだが、やや牡蠣の臭味が全面に出てしまい全体の味の調和を崩してしまっていたかなと感じた。
九条葱、鴨のラグーを使用したピッツォッケリ。
ピッツォッケリとはそば粉を使用したパスタの一種。
これは個人的にヒット。
ピッツォッケリはロンバルディア州ヴァルテッリーナ地区の名物らしいがどちらかと言うとピエモンテ料理のような味わいを感じた。
これも九条葱を使用しており、意識的に和の食材を使用しているようだ。
メインが仔羊の炭火ロースト。
クレソンのソースとブラチョーラと呼ばれるソースと合わせたもの。
これの仔羊の火の入れぐらいが本当に絶妙であった。これ以上火を入れてもだめだし、入れなすぎてもだめであろうと思われる絶妙さ加減。
食材自体も良いのだろうが、仔羊の肉の柔らかさと味が本当にマッチしていてとても美味しかった。
最後がドルチェ盛り合わせとカプチーノ。
正直に言うならイタリアンのデザートにはそれほど良い印象は抱かない。
どうしても盛り合わせで済ましている場合が多い気がする。
もちろん美味しいのは美味しいのだが、創意工夫という部分ではやはり今回も今ひとつかなと思った。
カプチーノも特別美味しいと思えるものでなく、またバリスタが店の入口のあたりに設置してあり使用する度に音が店内に響き渡ってしまうのもどうかと思った。
キッチンが席から見えるのは仕方ないというか、コンセプトの1つだと思うので人好き好きだと思うが、おしゃべりを妨げるような音をレストラン側が出してしまってはいけないと言うのが個人的な意見だ。
美味しいのは美味しかったが値段的に見てももう一つ何かがあればいいかなと思った。
食事会は会食でもあり、知り合いがやっている会社の社長に知り合いを勧めるというか、社長就任のための打ち合わせといったところ。
これは詳しく話すと長くなるし、あんまり関係ないので割愛。
その後新宿に行き。眼科画廊でトマソン展を見た。
トマソンとは改築や工事の段階で無用の長物になってしまった階段とかドアとかそうしたものの総称とでも言えばいいのか。
バリアフリー化した結果わけの分からない形で存在している階段とかはよく街で見かける。
日本中のそうしたものを集めた個展なのだが、人間が生活していく上で改良していった物の残滓を見るのは結構楽しい。
そういう風に街のあらゆるところにあるのだけど、意識しないと気づかないものを積極的に見ていくのは楽しいことだと思う。
モヤモヤさまぁ〜ずとかブラタモリとかそういうのに近いのかな。
そう言えば今日会った友達からこの日記について一言二言感想を頂いた。誰も読んでないものだと思ってるからなんだか恥ずかしい。
しかし、今日会った友達もいつもの印象とは違いなんだかとても落ち着いていて、日常の一風景というような印象を受けた。
なんというか、遊びに行ったりするときの気負った感じの、周りに合わせて楽しもうとするようなテンションのプレッシャーから解放された普通の顔という感じだった。
決して最高に楽しい時ではない時間を特に不快に思うこともなく過ごせることは仲の良さの指標の1つであるように思える。
そうしたものはきっと一緒に過ごした時間の長さが与えてくれるものなのかなと思う。
あと映画の話もした。「そして父になる」という映画の話なのだけど、あれは映画のエンディングのあときっとまたあの映画の中で「一度解決した」と思われる問題がきっとまた噴出してくるはずで、それを思うと辛いみたいな話。
映画というのは基本的に人生の一場面を切り取ったもので、やはり人間の全部を描くことは出来ないので、それはそういうものだとしか言い様がないけど、でも言いたいことは分かる。
人間は一度乗り越えたと思っても、同じ過ちや同じ行為を繰り返してしまうものだ。
人間は本当に保守的だし、心臓が同じリズムで繰り返し続けているのも保守といえば保守なのだ。
一度こうだって思い込んだものは、理性で違う場合も有り得ると気づいてもその心性でその考えに囚われてしまうものだ。
精神医学では大人になっても子供の頃の関係性を対象を変えて反復する、外傷的関係性を再演してしまう場合が多いことが指摘されている。
だから「そして父になる」以外の映画でも、あるいは現実の人間関係でも乗り越えたと思われる問題も何らかの変奏として反復される場合が多い。
そこはもう人生をかけて付き合っていくしかないだろう。
人生の問題がすべて解決された世界観というのは、子どもじみた考えで、ユートピアというのは決して辿り着くことが出来ない場所という意味の造語である。
生きている限り苦労はし続ける、嫌なことは起き続ける、悲しいことは起き続ける、それはそういうものだとしか言い様がない。
神様は気まぐれで私たちに何をお与えくださるか私たちは決して知ることが出来ない。
それらと生真面目に向き合い続けることは疲れるし、無理にしてもしかたがないかなとも思う。
頑張れば良いこともある、と、いうのは事実かも知れないが、無理に人に勧める価値観でもないだろう。
なんとなく、で、いいんじゃないだろうか。
それでもなんとなく生きていける社会を私たちは作ろうとしてきたし、実際100年くらい前と比べてもそうした社会は築かれつつあるように思える。
嫌なことは起きるだろうけど、まぁ大丈夫であろうって思えるようになるのが良いことなのかもね。
夕方には家に帰り、部屋の片付けなどをしていた。
夜が終わり、そして夜が始まる。
増大された記憶よ。失われた総ての苦痛と愛よ。忘却されたありとあらゆる官能よ。ぼくは君を愛す。何があろうとだ。