日記

10月23日

いつも通りに起床し、だいたいいつも通り。

帰り道漫画など本を幾つか買って帰る。

銀の匙の最新刊を読む。うーん。やはりすごいちゃんとした話だ。サンデーのこの手の漫画というとじゃじゃ馬グルーミンUPを思い返す。あれも結構ちゃんとした人生の話だった。どうしても現代で農業や牧場関係の話をやるとシビアな経済の話をいれざる負えないのかもしれない。

話は変わって、
センゴク一統記という漫画がある。
センゴクシリーズの最新章で巻数で言うと31巻目に当たる。

ここではだいたい本能寺の変の前後あたりをやっているのだけど、当然明智光秀が大きくフィーチャーされている。

明智(惟任)日向守光秀は信長に迫るほどの才能があり、織田家最大勢力の大名であり、京都随一の知識人であるという描かれ方をしている。

この漫画の中である1つの心性を巡って信長と大きく対比されている。

信長は本質的に人の気持ちが理解できないような人間として描かれているのだが、だがそれ故と言うべきなのだろうか、戦国の世界への強烈な愛執こそが織田信長という人間の最もあるべき姿であり、輝く姿であると考えている。
云わばディオソニス的な生を体現しようとしているのだ。

今川にしろ、武田にしろ、執拗なまでに執着しすべてを併呑しようと欲するエゴイストであり、そしてそれを肯定している男だ。

そしてそれと反するように光秀はアポロン的な人間であり、理知によって戦国の世界を争いなき平和な世界へ導こうとしている。

光秀は理知による真理を追求しており、信長にしろ誰にしろ愛執することによって自分の理性が乱されることを恐れているかのような描かれ方をしている。

人が人を愛執する。それは400年前の人々も今の人々も変わらないと思う。
人を愛する。執着する。それは人を狂わせ、多くの場合苦しめさえする。誰だって人は冷静でありたいと思う心があるものだと思う。愛執はそれを狂わせる場合が多い。

しかし、だ。故に自分が自分じゃなくなるほどの強烈な感情に突き動かされ、狂気に近いほどの熱情を持って人に接することへの享楽というのもあると思う。

ただ対人関係においてそこまでの強烈な感情を受け止められる人間も少ないのもまた事実であろう。

長くゆったりとした対人関係を築きたければ信長のようにどこまでも相手を追い詰めてしまわないように気をつけなければいけないのかもしれない。

感情を理知によって(ある程度)コントロールするのだ。
狂わないよう程々に好きでいられるよう抑えて、没頭しすぎないこと、やりすぎないこと。そうしたことは本当に大切だと思う。

どちらを選ぶのかは人それぞれだろう。短いサイクルで次々と興味が移り、新しいことに挑戦している人もいるし、淡々と1つのことに興味を持ち続けている人もいる。

どちらが正しいなんてことはない。要は自分にあった仕方を見つければ良いと思うし、楽しみ方を変えたければ変えればよいだけの話だろう。
人生対するする態度などは一度刷り込まれたものはなかなか変え難いと思うが、あっさり変わる時はあっさり変わると思う。
要はこうでなければならないという根拠なき意志はなるべく捨てようってことだと思う。
もちろん持ちたければ持ってもらって構わないけどね。

相変わらず日記とは違う雑記的な内容になってしまった。
新そばのシーズンなのでおそばが美味しい。
近所のおそば屋さんは普通にエビが置いてあるが、そのうちなくなるだろうか。
今日はおそばとアナゴ天といか天を食べた。
美味しかった。


そうそう昨晩ちょっとだけ友達とLINEでチャットをやりとりしたのだけど、それがすごい楽しかった。別に数回のやりとりだったけど、ああこの人はやっぱりこういう人だったんなぁってのが知れて良かった。そういう風に(錯覚かもしれないけど)知り合いの心性や性格を理解できることは嬉しい。