日記

10月22日

昨晩は早めに就寝した。けど電車の中でも眠くて30分ほど寝た。会社でも少し寝た。疲れが溜まっていたのかもしれない。

ここ数日間また固形物が食べられない感じになってきてる。
食べても吐いてしまうし、具合としてあまりよくない。
と言っても肉体的不調とは長い付き合いなのでビタミン剤などを摂り栄養補給。しばらくしたらなおるだろう。


先日ニーチェをぱらぱらと読み返してみた。だけど、文章がどうにも受け付けられなかった。昔はそれなりに面白く読めてた気がするけど、どうしても他者性の意識の低さみたいなのが気になってしまった。今の自分は真理を追求することにまったく興味が持てないどころか、軽い嫌悪感すらあるんだなって思った。


代わりに細澤仁「心的外傷の治療技法」を読み返す。最近読み終えたばっかなのだけど「ある解離性同一性障害患者との心理療法・続」という章がすごい。
症例と分析考察が載っているのだけど、読んでいるだけですごい虚無的になり、心が重くなる。実際に対面した治療者はもっと深い鬱を感じただろう。

心理療法の開始から3年ほど経ったくらいの症例Gの治療風景のところだけど。患者は失声状態に陥り発語するコミュニケーションが取れない状態になっているその状態のなか、性的交渉中にパートナーに何か言って欲しいと頼まれ、完全に固まってしまったと治療者に告白する。

治療者はここで何か言語的介入を行うことは、患者に何かを言えと言うことと同等であり、患者にとって言語コミュニケーションを強要されることは、心的外傷の場面の再演であると考え、治療者も患者も何も言えず固まってしまうという部分がある。

これは日常でもよくあると思う。何をどう言おうが、もはや言葉それ自体が暴力でしかありえない場面。それがどのような優しい言葉でも、相手にとって負担でしかありえない場面。

それは体力と関係有るのかもしれない。体力というのは精神的な部分も含めて。
言葉をやりとりするって結構体力を使うものなのだ。
それが少ない時にはどうしたって億劫になる。
場合によっては億劫になるどころじゃないだろう。

誰だって分かっているだろうけど、コミュニケーションはつねに暴力を孕んでいる。
どのようなものであれコミュニケーションは暴力の一形態だ。

しかし人間は完全に人と関わらず生きていくのは不可能であろう。何かしらの形で人とコミュニケーションする必要性があるし、また他者との関係性の中で傷が癒やされるのもまた事実だと思う。

何をどう言おうが、もはや言葉それ自体が暴力でしかありえない場面、そのような状態になった時、それでも言葉に頼りたくなるのが人間ではないだろうか。

単純にその状態は苦しい。だから逃げるようにして、まるで海中で苦しくなって息を吸うために地上に出るかのように言葉を吐いてしまう。

そういうとき何も言わず、ただ、ただ、相手を受け止められたらなと思う。
難しいだろうけどね。
まぁ自分も含めて人間は万能じゃないし、万能を求めても仕方がない。

まぁなるたけどんな相手であろうと最低限気は遣ったほうがいいだろうという程度の話だ。

なんとなく日記とは離れてしまったな。

今日は関西は温かかったようだが関東は寒かった。もうすぐ11月だし紅葉も散って冬の訪れだろう。