雑記

「人はどうようにしてものを考えはじめるのでしょうか?」

レヴィナス「たぶん、言葉という形ではおよそ表現しえないような外傷や手探りから始まるのでしょう。例えば、別離、暴力の場面、時間の単調さを突然自覚することといったものです。」(『倫理と無限』)



ここのところあまり精神状態は良いとはいえない。
世の中の大抵のことは思い通りにならないのは知っているし、受け入れているが、それでもうまくいかないことが続けば、気分が落ち込むのは仕方あるまい。

気分転換にと言うにはあまりに頻繁だが、先日なんとなく携帯に電源を入れTwitterをやり、こんなことを呟いた。
 「どうでもいいけど、自分は内面はどうでもいいと思ってるわけじゃなくて、一つのことに拘るのはバカらしいと思ってるのですね。つらい感情だけが真実とは思えないし、生きる理由がないように、死ぬ理由もないし、いろいろな感情があること、あらゆる感情すべてが正しいと思ってます。」暁 / あかつき on Twitter: "どうでもいいけど、自分は内面はどうでもいいと思ってるわけじゃなくて、一つのことに拘るのはバカらしいと思ってるのですね。つらい感情だけが真実とは思えないし、生きる理由がないように、死ぬ理由もないし、いろいろな感情があること、あらゆる感情すべてが正しいと思ってます。"


その発言に対し友人のMくんから「ちょっとその態度はずるいんじゃない」って内容のReplyを頂いた。

ぼくは彼にずるいと言われてもちょっとピンとこなかった。
自分は人の権利を侵害しなければ何をしてもOK、どんなことを考えてもOKって立場だ。
一言で言うならリベラリストだし、なんとなく漠然と若い日本人ならだいたいリベラリズムに親和性あるだろうって思っている。

だから彼がずるいと言ってくるのがよく分からなかった。

ぼくは自分の考えを表明しただけだし、内容も特別人の権利を侵害することではないと思ったし、人の人生観に対して否定的な意見を出すってことはよっぽど受け入れがたいと思ったのだろうが、「ちょっとずるい」だけではよく分からなかった。

ぼくはだから文句があるのは分かりました。ずるいと言われればそうなのかもしれませんねって言って、なんとなくこのやりとりは終えた。

でもそのあともモヤモヤして、ずっとこのことを考えていた。
ぼくは先の発言をTwitterで初めて言ったわけじゃない。ちょこちょこ似たようなことは言っていた。
それくらい自分の中で強い想いがある内容だからだ。
だからここでもう一度ちゃんと言っておきたいと思う。



人間の素晴らしいところってなんだろうか?

ぼくは人間の素晴らしさとは多様性だと思う。差異って言葉に言い換えても良い。

例え今の自分がどんな人間だとしても明日にだって強烈な聖性を帯びてキリストのような存在となり歴史を一変させるかもしれない。
あるいはマイケル・ジャクソンのようなスターになるかも。
あるいはピカソルノワールのような画家に。
あるいは、あるいは……。
あるいは、そのような芸術家や社会的重要人物にならずとも、今の自分とは違う自分になりえるし、誰も彼も彼女も、自分とは違う存在である。その多様性こそが人間の素晴らしさだと信じてる。

感情や思考にしても同じで、ありとあらゆる感情が素晴らしく。また正しいと思う。
それがどのようなネガティブなものであっても、ありとあらゆる感情、ありとあらゆる思考、それは全て正しいと思っている。


それらは多様性を保証するものであり、多様性そのものだ。


思考も感情もあるいは人格と呼ばれるもの(自分は所詮人格と呼ばれるものなど存在しないのではと思っているが)は日々変化し、あるいは突然変化する。
だけど、人はよく1つのことに囚われてしまう。つらいから死にたい、死ななければならない。あるいは、人類みんな死滅してしまえなど。
何か1つのことに囚われる。

ぼくはそれは人間の愚かさだと思う。

しかし、その人間の愚かさも多様性の結果の1つであり否定はしてないし、出来ないと思う。

否定はしないが愚かしいなと思う。

だからTwitterなどを見てて、1つの感情に囚われてる人を見ると、あなたにはそれ以外の感情もあるし、今の自分ではない違う自分もあなたの中にあるのに、なぜそこに固執してしまうのかって思って歯がゆくなる。

多様性が信じられなくなって固執に囚われてる人に対して、その状態のあなたは人間として圧倒的に正しい。
しかしそれ以外の存在に変わることもできる、と、説くのは暴力的なのかもしれない。
いや、暴力的なのだろう。

自殺したり、人を殺したりするのも人間が神さまから与えられた可能性の1つだ。
1つではあるけど、ぼくはエゴイストだしわがままだから、その可能性を行使してほしくない。
誰も彼も死んでほしくないし、できれば笑って幸せに生きてて欲しい。

ぼくの言ってること、確かにずるいのかもしれない。
いろいろな可能性があって、どのようのものであれ、正しいのに、やっぱりいくつかの選択肢はどうしても受け付けられない。
論理より自分のエゴイズムを優先してしまう。
ぼくは本当のドゥルリアンにはなれないし、なりたくない。

人に幸せになってほしいと思うこと、自殺しないでほしいと思うこと、人のこと殺したり、ひどい目に合わせないでほしいと思うこと、それらはお願いという形でしかありえないんだと思う。
だからこれは思っているだけじゃあダメだ。
何度だって口にしなければならない。
相手が聞き飽きるくらい何度だって繰り返さなきゃいけないと思う。

確かにこれはあまりに無責任な暴力なのかもしれない。でも、ぼくはそれでも日々祈りお願いしたい。
今の自分とは違う自分に変われる、そしてそれによって良い風になればいいなと切に願います。